幻の憲法

杉原千畝神話の虚実

杉原千畝神話の虚実  

日本とナチスドイツを同列に論じる左翼の詭弁を破砕する  

 掲示板で断片的に書いた話題について、今ひとつ、総括が必要な問題がある。そう思い、今度は杉原千畝氏と杉原神話について、史実から見た正確な姿を書いておきたい、と思い立った。

 サブタイトルに記したように、この一件は、戦前の日本を同盟国ナチス・ドイツと同列に論じ貶めようとする、左翼勢力の陰険な宣伝の一環である。
 左翼の宣伝手法の多様さ、巧妙さには正直脱帽するが、感心してばかりもいられぬ。嘘は嘘、史実でないことは史実でない、とはっきり反論しなければ、左翼はつけ上がるばかりだ。

 リトアニア副領事(領事代理)だった外交官・杉原千畝氏が、日本政府の訓令に背き、ナチスに迫害されたユダヤ難民に大量のヴィザ(査証)を発給し、その生命を救った。杉原は「日本のシンドラー」である。そういう書物が巷に溢れている。

 外務省外交史料館のロビーには杉原副領事を讃えるプレートが設置され、彼の事跡を展示するブースまで設けられた。
 
 史実というものは、一面だけ見れば、どんな神話・美談でも創作できる。小説の世界なら許されるだろうが、それが左翼の偽宣伝の道具に堕している以上、黙って見過ごすわけにはいかない。

 杉原千畝氏は、決して独断でヴィザを発給したのではないし、そのようなことは土台、不可能である。彼は日本帝国政府の意思を忠実に遂行した一外交官でしかなかった。杉原千畝の功績は、実は日本帝国政府の方針・功績でもある。
 そこが問題の本質であることを、ゆめ忘れてはならない。

さて、杉原千畝氏とはどんな人物だったのか  

 まず、杉原千畝氏の略歴を記そう。後刻、以下の年譜を参照して頂くことがあるので、大体の経歴をご理解願いたい。

明治33(1900) 
  岐阜県加茂郡八百津町に生まれる
大正 8(1919)年
  早稲田大学高等師範部英語科予科終了 英語科本科入学
  外務省留学生試験合格 外務省入省
  外務省ロシア語留学生として満洲ハルビンへ
大正12(1923)年
  日露協会学校(後のハルビン学院)特修科終了
大正13(1924)年
  外務書記生として在満洲里領事館勤務となる
  在ハルビン総領事館勤務となる
昭和 7(1932)年
  北満特派員公署事務官として満洲国外交部へ移籍
昭和 9(1934)年
  同外交部政務司俄(ロシア)科長兼計画科長
昭和10(1935)年
  外務省に復帰、情報部第一課勤務
昭和11(1936)年
  外務書記生として在ペトロパブロフスク総領事館勤務
  二等通訳官として在ソヴィエト連邦大使館勤務
昭和12(1937)年
  二等通訳官として在フィンランド公使館勤務
昭和14(1939)年
  副領事(領事代理)として在リトアニア領事館勤務
昭和15(1940)年
  日本経由で第三国に渡航目的のユダヤ人難民に通過査証発給
  在プラハ(プラーグ)総領事館勤務(総領事代理)
昭和16(1941)年
  在ケーニヒスベルク総領事館勤務(総領事代理)
  一等通訳官として在ルーマニア公使館勤務
昭和18(1943)年
  三等書記官として在ルーマニア公使館勤務
昭和22(1947)年
  帰国 外務省退職
昭和44(1969)年
  イスラエル政府より叙勲
昭和60(1985)年
  イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」受賞
昭和61(1986)年
  逝去(享年86歳)

官僚組織の実態 ノンキャリアこそ日常業務を支える核  

 いかがであろうか。
 実の所、外交官・杉原千畝の実績を年譜で見たのは初めてだ、という方が大部分だろうと拝察する。
 
 生涯をロシア専門家、すなわち現在はやりの言い方を使えば「ロシア・スクール」であった杉原千畝氏の職歴は、正にノンキャリア外交官の典型であった。

 主として帝大出身者で構成される、外交官試験に合格した者をキャリア組と称する。毎年200人近く受験して数人しか合格しない超難関の国家試験だが、大蔵省その他の文官高等試験(余談だが「高等文官試験」というのは誤り)合格者同様、これに合格した者は凄いスピードで出世の階段を駆け上がる。

 年譜を御覧頂ければ分かるように、明治33(1900)年生まれの杉原氏は、昭和18(1943)年、すなわち大東亜戦争中になって、漸く3等書記官のポストに達した。それも、日本帝国政府が公使館しか設置していなかった欧州の小国ルーマニアにおいて、である。

 ちなみに、在外公館(大使館・公使館・総領事館・領事館)における役人のヒエラルキーを3等書記官を出発点として上に向かって記すと、こうなる。
 3等書記官、2等書記官、1等書記官、参事官、公使、大使。
 
 さて、それでは杉原氏の経歴を、東京帝大卒のキャリア外交官・重光葵(駐ソ、駐英大使、外相)と比較してみよう。
 重光葵は、杉原氏が漸く3等書記官になったのと同じ43歳の時、日支通信問題の政府全権委員に任命されている。と言っても分かりにくかろうから、彼が44歳の時の経歴を見てみよう。
 
 重光葵は、44歳で支那駐在公使である。昭和6(1931)年のことだった。周知のように、この翌年、第一次上海事変の停戦交渉中、重光公使は朝鮮人の爆弾テロで右脚を切断する重傷を負う。しかし、彼は帰国療養後の昭和8(1933)年、外務省事務当局のトップたる外務次官に任ぜられている。時に46歳。
 
 杉原千畝氏は46歳で、ルーマニア公使館3等書記官。
 出世のスピードにおいて段違い、と言うより比較にならないことがお分かり頂けただろうか。
 中央官庁というのは、そういう世界である。

 誤解されては困るが、私は杉原氏を貶めているのではない。
 いや、それどころか、杉原千畝氏は「仕事の出来る外交官」として当時の外務省では名前の知られた存在だったらしい。
 
 昭和2(1927)年11月、外務省欧米局が刊行した『ソヴィエト聯邦国民経済大観』は、ハルビン総領事館在勤中の杉原氏(当時26歳)が中心となってまとめた調書だが、出来栄えの素晴らしさで省内を驚倒させたという。
 当時、杉原氏は外務書記生。弱冠26歳の青年がこれだけの調書を書いたのだから、杉原千畝氏が優秀な外交官だったことは疑いようがない。

 外務省のような中央官庁でも、市町村役場でも、日常業務を時計の針のような正確(精確)さで動かしているのは、実はノンキャリア組なのである。
 

杉原氏は、ヴィザを発給したから外務省をクビになった!?  

 実は、杉原氏の年譜を紹介したり、キャリア官僚の重光葵外相にご登場頂いた理由は、この疑問に答えるためには是非とも必要だったからだ。

 簡単なことなのである。
 欧州の小国リトアニアの、しかもノンキャリア組の副領事(領事代理)でしかない杉原千畝氏に、本省の訓令に違反してユダヤ人避難民に通過ヴィザを大量発給するほどの権限があったのか。

 答は、断じてノーだ。

 仮に杉原氏が政府の訓令に違反し、独断でユダヤ人避難民に通過ヴィザを大量発給したとしよう。
 杉原氏は訓令違反と、政治難民をシベリア鉄道経由ウラジオストク、および日本の港湾に殺到させた責任を問われ、外務省を免職されただろう。
 ノンキャリア官僚の独断専行に比して、結果が巨大過ぎる。

 後で具体的に説明するが、外務省(有田八郎・松岡洋右両外相)は、杉原氏の勤務する在リトアニア(カウナス)領事館を含む全欧州の在外公館に対し、通過ヴィザ発給に際して守るべき大原則を厳格に指示しただけであり、避難民へのヴィザ大量発給を訓令違反と見做したことは断じてない。

 杉原氏が通過ヴィザ発給後も欧州各地に在勤したこと、つまり昭和22年まで外務省に在職し続けたことこそ、杉原氏が訓令違反を犯さなかったこと、つまり外務省(日本帝国政府)の命令に忠実に従ったことの証明ではないか。

 杉原氏が帰国後、外務省を退職した(正確には、させられた)のは、ユダヤ人避難民に通過ヴィザを発給したからではないのである。
 
 大東亜戦争の敗戦によって、日本は占領下に置かれた。
 占領の意味を分かっていない人が多過ぎる。
 占領下の日本に外交権はない。従って、外交官の仕事はなくなってしまう。外務省の組織を大幅に縮小する必要が生じたのは、致し方ないことだった。
 
 杉原氏のようなノンキャリア組のロシア専門家は、真っ先に不要となって馘首(リストラ)された。それだけのことなのだ。
 官僚組織は非情である。キャリア組の首を繋げるために終戦連絡中央事務局(終連)という組織が作られたことに比較すれば、猶更であろう。

       

入国ヴィザは、入国を保証しない。  

 本題から少々外れるかもしれないが、ここでヴィザというものの持つ本質的性格について、一言しておこう。
 
 テレビのニュースが「入国管理法」「入管法」と呼ぶ法律があるが、その正式名称は「出入国管理および難民認定法」である。

 海外旅行に行くために必要な書類の第一が、パスポート(旅券)だが、これは日本国政府の発行する出国許可証。
 それに対してヴィザ(査証)は、渡航先国政府の発行する入国許可証。昨今はヴィザ免除協定によって、観光や商用など短期間の渡航なら入国ヴィザを要求しない国が増えたが、そういう国でも長期滞在する渡航者に対しては、その都度、目的別のヴィザを要求する。
 これが海外渡航の大原則。

 ここで注意して頂きたいのだが、有効なパスポートとヴィザを持つことは、その国に入国するための必要条件であるが、十分条件ではないということだ。

 早い話が、日本入国ヴィザを有し、かつ有効なパスポートを持った外国人が成田や関空の入国審査ブースに並んだ時、その外国人の日本入国を許可するか否かは、入国審査官の裁量次第。
 彼を日本に入国させるかどうかは、水際で決定されるのだ。

 大多数が善良な市民であるから、この簡単な事実が目立たないだけのことなのである。
 これは日本だけではない、基本的に全世界共通の原則。そうでなければ、国家の治安維持、いや安全保障は完遂出来ない。

 成田や関空の入国審査官が、彼を挙動不審者、ないし要注意人物と判定すれば、彼は即、国外退去処分。有効なパスポートも入国ヴィザも何の役にも立たない。
 要するに、入国ヴィザは入国を保証しないのである。

 杉原千畝氏が、北米・中南米諸国に逃れるべく在カウナス日本領事館に押し寄せるユダヤ人避難民に日本通過ヴィザを発給したのは、決して「避難民救助のため、人道的な理由から無原則に通過ヴィザを書き続けた」というような性質の話ではない。

 たとえ通過ヴィザとはいえ、日本国内に大量のユダヤ人避難民(政治難民)を受け入れることの重大性は、今さら云々するまでもないだろう。
 それは極めて高度の政治決定に属する問題で、断じて、欧州の小国リトアニアの副領事が決定可能な問題ではないのだ。

 入国ヴィザを、日本の港湾で実際に機能させる(実際に日本に入国可能とする)ためには、一定の条件が必要である。

 以下、外交記録を元に、在欧州日本公館の通過ヴィザ発給業務の実態を具体的に説明したい。

ユダヤ人避難民に対する通過ヴィザ発給方針  

 次に掲げるのは、松岡洋右外務大臣が来栖三郎駐独大使に宛てた、昭和15(1940)年7月23日付「猶太(ユダヤ)避難民二対スル通過査証取扱方注意ノ件」である。
 

最近欧州方面ヨリ本邦(註:日本)経由米国大陸諸国渡航ノ猶太避難民多数アリ 現ニ日本郵船伯林(註:ベルリン)支店ニテ之等避難民ノ本邦米国間ノ輸送ヲ引受ケタル者ノミニテモ六百名ニ上リ(中略)之等ノ者ニ対シテハ行先国ノ入国許可手続ヲ完了セシ者ニ非サレハ通過査証ヲ輿ヘサル様取扱方御注意アリタシ

 お分かりだろうか。
 日本郵船ベルリン支店が引き受けた、日米間航路に乗船する亡命ユダヤ人避難民が600名にもなったが、彼らに対する日本通過ヴィザ発給は、最終目的地たる北米・中南米諸国の入国許可手続を完了した者に限るように、という訓令である。

 親枢軸外交、或いはナチス寄りと根拠薄弱な批判に曝されることの多い松岡洋右であるが、彼が欧州の在外公館に与えた指示は、日本外務省として至極当然のものだった。

 ユダヤ人避難民が日本政府(外務省=在外公館)に求めたのは通過ヴィザである。通過ヴィザの発給条件は、松岡の訓電にもある通り、最終渡航地の入国許可(ヴィザ)を取得済みであること。
 
 またも私事にわたり恐縮だが、私も冷戦時代、西独(ハノーファー)からモスクワまで国際列車(東西急行)を予約する際、東独、ポーランドの通過ヴィザを取得するに当たり、ソ連入国ヴィザの提示を要求された。

 今論じているユダヤ人避難民の場合、昭和15(1940)年夏の時点では、欧州の港湾から大西洋を超えるコースは(絶望ではなかったかもしれないが)利用が極めて難しいだろう。
 先に紹介した松岡訓電の時点で、欧州の西部戦線はフランスの降伏で終わっている。欧州はドイツに制圧された恰好なのだ。

 必然的に、彼らはシベリア鉄道でウラジオストクへ向かい、海路で敦賀(福井県)、上海を経て北米・中南米へ向かうコースをとることになる。
 これが、在欧州日本公館にユダヤ人避難民が向かう理由だ。

 話を戻そう。
 最終目的地の入国許可を得ていない者には、通過ヴィザ発給を見合わせよ。これは当たり前の指示である。枢軸外交時代の日本外務省が、同盟国ナチス・ドイツへの遠慮を理由にユダヤ人避難民へのヴィザ発給を渋ったなどというのが、如何に根拠のない、悪意に満ちた誣告(ぶこく)であるか、一目瞭然であろう。
  
 傍証をもう一つ挙げる。
 松岡はサンフランシスコ総領事に対し、米国入国を拒否されたユダヤ人避難民が日本へ強制送還されるようなことになったら、日本として蒙る迷惑は少なからざるものがあるゆえ、米国官憲の避難民に対する取扱ぶりを注意して観察せよ、と命じている。
 現実に、ヴィザの不備によって米国入国を拒否され、親類の援助でカナダ等、別の国へ亡命することを余儀なくされたユダヤ人避難民も存在したようである。

 同趣旨の松岡訓電は、後に全世界(欧州に限らず)の在外公館(大使館・公使館・総領事館・領事館)に対し発せられている。
 最終目的地の入国ヴィザに不備があれば、それは日本の蒙る迷惑の次元に留まらず、全世界的規模の難民問題を誘発することになるのだ。難民問題というのは、それほど深刻である。

 日米関係がデリケートになりつつあった当時、松岡がこの問題に神経を尖らせたのは、当たり前過ぎるほど当たり前のことであろう。

 明言する。
 日本の要求する条件を満たした者には、通過ヴィザを発給する。それが日本帝国政府の大方針なのであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。

「日本の提示条件を満たさない避難民の日本行き乗船を、ウラジオストクで拒否せよ」と意見具申した杉原副領事  

 この表題を見て驚いた方、少なくないのではないか。
 何度も述べたように、杉原副領事は日本帝国政府の訓令を忠実に実行した外交官に過ぎなかった。確かに、杉原氏の発給した通過ヴィザで亡命に成功し、後日イスラエル政府高官にまでなった人物が同氏に感謝し、顕彰したのは当然であろう。
 しかし、杉原氏の通過ヴィザ発給は、あくまでも外務省の指示に従った日本公使館の日常業務なのである。

 だからこそ、杉原副領事は、日本帝国政府が要求する条件を満たさない者を日本に渡航させてはならない(乗船を拒絶せよ)、と意見具申したのだった。
 以下、具体的に説明する。まず、松岡外相がリトアニア(カウナス)の杉原副領事に発した訓令を紹介しよう。

最近貴館(註:在リトアニア日本公使館)査証ノ本邦経由米加行「リスアニア」人中携帯金僅少ノ為又ハ行先国ノ入国手続未済ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アルニ付此際避難民ト看做サレ得ヘキ者ニ対シテハ行先国ノ入国手続ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滞在費等ノ相当ノ携帯金ヲ有スルニアラサレハ通過査証ヲ輿ヘサル様御取計アリタシ

 漢字片仮名混じり文で読みにくいであろうから、大意を記す。 
 「最近、リトアニア日本公使館が発給した通過ヴィザを持って日本を経由し米国・カナダ方面に向かう(主としてユダヤ系)リトアニア人避難民の中には、行先国の入国手続が終わらないまま、しかも小額の金銭を持って日本に渡来し、日本上陸を許さざるを得ないものがおり、処置に困っている。行先国の入国手続を完了し、かつ十分な金銭を持たない者でなかったら、通過ヴィザを発給しないよう配慮されたい。」

 先ほど記した外務省の大方針は、リトアニアの杉原氏にも確実に届いていたことが分かる。
 次に紹介する杉原副領事発松岡外相宛電報は、その動かぬ証拠であるから、熟読されたい。

当国(註:リトアニア)避難民中ニハ近クニ中南米代表ナキト当館ノ引揚切迫ヲ見越シ先ツ現在唯一ノ通過国タル我査証方願出ル者アリ而モ我査証ハ蘇側(註:ソ連側)ニ於テモ米国方面出国手続上ノ絶対条件トナシ居ル等事情斟酌ニ値スルモノアルニ鑑ミ 確実ナル紹介アル者ニ限リ浦塩(註:ウラジオストク)乗船迄ニ行先国上陸許可取付方本邦以遠ノ乗船券予約方並ニ携帯金ニ付テハ極端ナル為替管理ノ為在外資金ヲ本邦へ転送方手配スル場合敦賀ニ予報方手配方夫々必要ノ次第ヲ承知スル旨申告セシメタル上右実行ヲ条件トシテ査証シ居ルニ付右手続未了ノモノニ関シテハ至急浦塩ニ於テ乗船拒絶方御取計アリタシ

 以下、大意を記す。
 「リトアニア避難民の中には、近くに中南米諸国の在外公館がないこと、また日本公使館のリトアニア引き揚げ(ソ連の同国併合による)が切迫していることを理由に、しかもソ連当局が米国方面への出国には日本の通過ヴィザ取得を絶対条件としているため、現在、亡命のための唯一の通過国となってしまった日本の通過ヴィザを要求する者が多い。
 そうした事情には斟酌するべきものがあるので、確実な身元紹介がある者に限って、行先国の入国手続を終え、しかも日本以遠の乗船券を予約し、為替管理について日本側の提示する条件に従う旨申告させ、かつこれを実行した者にのみ、通過ヴィザを発給している。
 この手続を終えていない者については、ウラジオストク港で日本行きの船への乗船を拒絶するよう、外務省の方で取り計らって欲しい。」

 如何であろうか。杉原氏もまた、外交官の常識に従って行動していた事実がお分かり頂けたであろうか。そして、これが杉原氏もその一員であった在欧州日本在外公館のヴィザ発給事務の実態だったのである。

 この杉原氏の意見具申に、松岡外相がどう応えたか。非常に興味深い電報が残っているので、ご紹介しておく。
 原文は煩雑になるので、今度は現代語訳で大意だけを記そう。

 「船会社が(日本)帝国領事(註:杉原氏)の発給した通過ヴィザを持つ者の乗船を、ウラジオストク港においてソ連官憲の命令に反して拒絶することは事実上不可能である。のみならず、それは日本外務省の発給したヴィザの信用を害するものとなろう。貴殿の言われるような取扱をした避難民の後始末に、我が方としても窮している実情なので、以後はヴィザ発給問題を厳重に取り扱われたい。」

 何度でも言うが、亡命する国(最終目的地)の入国手続(ヴィザ取得)を終えていない者に万一、日本政府が通過ヴィザを発給した場合、全世界規模の難民問題が発生してしまう。
 
 ユダヤ人避難民が米国への亡命を希望するのなら、彼が「米国に確実に入国出来る」ことを証明する書類を持たない限り、日本帝国政府が通過ヴィザを発給するわけにはいかないのである。 
 
 ウラジオストクで避難民の乗船を拒否出来ない以上、欧州の在外日本公館がヴィザ発給に際し厳しい資格審査を行うことは当然だろう。

 出入国管理というのは、正に国家の安全保障問題。人道論や経済論では括れない性質の問題であることを、是非とも御理解願いたい。

上海は亡命ユダヤ人の租界 〜満鉄調査部のユダヤ人救済案〜 日本人はユダヤ民族の救済を真剣に考えていた。  

 「ユダヤ陰謀論」というものが流行ったことがある。いや、今も「ユダヤ陰謀論」で世界史が全部説明出来てしまうと信じている、困った人々が多い。

 戦前の日本でも、四王天延孝(陸軍中将)という人物が反ユダヤ的思想に裏打ちされた言論活動をしていた。ユダヤ民族による世界支配の陰謀論『シオン賢者の議定書』も、かなり有名だったと思う。私はもちろん、そんなナンセンスな議論をするつもりは全くないし、何よりもそんなものは毛頭信じない。

 ところが現代の日本では、日本帝国政府がナチス・ドイツとの同盟を選択したことを以て、日本がナチスばりの政策を実行していたと短絡思考してしまう人、若しくはそう思い込んでしまっている人が少なくない。
 これでは、まるで「逆ユダヤ陰謀史観」のようなものである。

 確かに、日独伊三国同盟を選択した松岡外交に対する批判は根強い。私自身も、決して賢明な外交的選択であったとは思っていない。しかし、松岡外交に対する評価も他の問題同様、多面的でなければならないこともまた事実ではないか。
 
 ここでは、当時の日本人がユダヤ難民救済について真剣に考えていた事実を、具体的史料によって示してみたいと思う。日本帝国政府のユダヤ人に対する政策が、ナチス・ドイツの対極にあったという事実を。

 戦前の上海は「魔都」と呼ばれた。麻薬の密売、チャイナマフィア、モダンボーイ等のイメージが付きまとう上海は、支那にありながら支那でない特殊地帯だった。
 欧米列強の東亜における出張所と言うべきか、東亜における国際金融の中心であり、その中心部の地価は、東京・銀座より高かったのである。

 ナチスの迫害で欧州を追われ、シベリア鉄道経由で東亜にやってきたユダヤ人避難民は、ウラジオストクから日本経由で北米・中南米へ逃れた者、上海に滞留した者に大別出来る。上海中心部は共同租界、フランス租界であり、日本総領事館も存在する。やがて日本経由で亡命を考えている者にとっても、取り敢えず腰を落ち着けるためには好都合な土地だった。
 
 昭和15(1940)年5月、欧州ではドイツ軍が電撃作戦でフランスを席巻していた時期、満鉄調査部が作成した一文書がある。

『独逸国籍関係法規ヨリ観タル猶太避難民ノ国籍喪失ノ可能性ニ就テ』(猶太避難民収容具体策研究資料)

 原史料はかなり長文ゆえ、とても全文をご紹介することは出来ない。従って、要旨だけを現代語訳で示すこととする。
 
 「ユダヤ人避難民を日本の勢力下にある東亜のいずれかに収容するに当たって、彼らのドイツ国籍を如何に処置するかが問題となる。」
 「1913年ドイツ国籍法第28条は、当事者の申請によって一定条件の下、国籍離脱を認める旨規定している。もし日本側が彼らユダヤ人避難民にドイツ国籍の離脱を申請するよう勧めたなら、日独関係によくない影響を及ぼすだろう。」
 「しかし、ナチス・イデオロギーに基く国籍観念は、むしろユダヤ人のドイツ国籍離脱を理想としている。従って、ユダヤ人避難民に対するドイツ国籍離脱勧告の(日独関係に対する)影響を深刻視する必要は、必ずしもないのではないか。」

 この文書は、上海総領事を経由して外務省(有田外相)の元へ確実に達している。

 満鉄調査部の研究資料は、上海地区に集まったユダヤ人避難民の収容地区問題、さらにはユダヤ人のドミニカ共和国移住計画にまで調査の手を広げた。
 以後の外交記録を点検してみると、日本帝国政府は昭和20年の敗戦に至るまで、上海地区のユダヤ人避難民を保護し続けていることが判明する。

 日本帝国政府の政策が、一貫してユダヤ人避難民保護であったことは疑いようがない。
 
 確かに、ナチス・ドイツと同盟関係にあった日本がユダヤ人避難民保護を国家の政策として公然と打ち出すことは、部内の反対もあり、事実上の困難もあっただろう。従って、そういう趣旨の政府声明、対独通告等は行われていない。
 
 しかし、言うまでもないことだが、そのことは日本帝国政府がナチス・ドイツのユダヤ人政策に同調したこと、迫害に関与したことの証明では断じてあり得ない。

 先に引用した満鉄調査部の史料は、当時の日本の国策を推定・補強する傍証というべきものであり、厖大な記録の氷山の一角にも達しない。
 その意味で、史料引用としては迫力不足という批判もあろうが、皆様のご理解を助ける上で一番良かろうと思い敢えて触れた次第である。

改めて杉原千畝氏を讃える  

 以上の説明で、杉原千畝氏の通過ヴィザ発給が日本帝国政府=外務省の訓令に違反する行動ではなかったこと、杉原氏を含めた欧州駐在の日本外交官たちが、通過ヴィザ発給の前提条件を厳守しながら発給事務に携わったこと、がご理解頂けたであろう。
 
 彼らの有能・勤勉な事務遂行のお陰で、幾多のユダヤ人避難民が無事シベリア鉄道、日本を経由し、新天地へ移住することを得た。

 数年前、私はワシントンDC中心部にある「ホロコースト記念博物館」で、たまたま開催されていた杉原千畝氏に関する展示会に出くわしたことがある。米国人一般は日本社会の実情など詳しく知らない。従って、展示会の主人公に杉原氏を取り上げた理由は、日本社会に流布された杉原神話をそのまま取り上げたからだろうと思う。

 それでも、展示会の内容は比較的公平だったように記憶する。杉原氏個人の紹介に加え、欧州にある日本在外公館全体の通過ヴィザ発給によってユダヤ人避難民が救われたという、絶対忘れてはならない重要ポイントも押さえた内容だったからだ。

 実は、米国政府はユダヤ人避難民の入国を少なからず拒否していた。詳細は省くが、博物館の常設展示にはルーズヴェルト政権のユダヤ人避難民に対する冷淡な対応を示すものもある。
 ユダヤ人問題はナチス非難だけでは説明出来ないという冷厳な事実に、欧米社会がやっと向き合い始めたのだろう。
 
 さて、先述のように、晩年の杉原千畝氏はイスラエル政府から叙勲される栄に浴した。彼の発給したヴィザで亡命出来たユダヤ人避難民の中に、イスラエル政府高官になった人物がいたことが機縁となったのである。

 杉原氏の発給したヴィザは、その意味で確かに「命のヴィザ」だったのだ。我々日本国民は、誇りを以て杉原千畝氏の偉業を讃えようではないか。

 しかし、その偉業は決して杉原千畝氏個人のものではない。
 政治的迫害によって進退に窮したユダヤ人避難民に通過ヴィザを発給し、日本を経由して第三国に亡命させることを決断した日本帝国政府、外務省の偉業であることを忘れてはなるまい。
 日本帝国政府は、八紘一宇の国是を見事に遂行したのである。

最後に、左翼の社会的犯罪を糺す  

 杉原神話の虚妄性は、もう十分明らかになったであろう。
 
 左翼は、政府の命令に従って業務を遂行した杉原千畝という一外交官を神格化することによって、当時の日本帝国政府を貶めようと狙った。

 杉原氏の通過ヴィザ発給事務が、ちょうど日独伊三国同盟締結前夜であったことも、左翼の宣伝には好都合だったろう。
 そんな時代の空気の中で、日本がナチス・ドイツを無視してユダヤ人避難民を救う筈がない、という思い込みに便乗することで、左翼の宣伝は確かに功を奏した。
 
 こうして見てくると、杉原神話が悉く正確な知識の欠落、思い込み、嘘によって成り立っていることが分かる。いわゆる「南京問題」「従軍慰安婦」と全く同じ構図なのだ。

 天網恢恢粗にして漏らさず。
  
 このような嘘を広めることで、左翼は日本国と日本国民を貶めているのみならず、身を粉にしてヴィザ発給業務に携わった杉原千畝氏自身をも侮辱しているのである。
 
 今後も、左翼は様々な思想謀略を仕掛けてくるだろう。
 杉原神話の一件が、その偽宣伝を見抜く一助となれば、と切に思う。

                 (完)

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