幻の憲法

朝大嫌の中欧紀行 ベルリン〜プラハ〜ウィーン編

朝大嫌の中欧紀行 ベルリン〜プラハ〜ウィーン編

鉄のカーテンが無くなって早、二十年  

 仕事を抱えている出張の合間に、たとえ短期間でも物見遊山に出かけることは背信行為である。
 平たく言えば「サボリ」であろう。

 そう謗られてもしょうがないことは重々承知しているのだが、どこかで私を縛っていたタガが外れてしまった。と言うわけで、今回は強引に念願を叶えた。
 鉄のカーテンが無くなったボヘミア盆地を歩くという念願を。

 鉄のカーテンという言葉を知らない若者が増えている。いや、そもそもソヴィエト連邦(ソ連)という国家が存在したことを知らない世代が出現しているのだ。
 
 欧州が鉄のカーテンで真っ二つにされた冷戦時代が、もはや現代史から近代史になりつつある。

 その冷戦時代、鉄のカーテンの向こう(旧東欧圏)を取材する世界各国のジャーナリストは、オーストリア・ウィーンに本拠を置いていた。東欧圏に何か事件が起これば、ウィーンから車や飛行機で駆けつけるのである。
 欧州は狭いから、そのような芸当が可能だった。

 ウィーンは東欧圏に頭を突っ込んでいる。旧チェコスロヴァキアのブラチスラバ(独名プレスブルク 現スロヴァキア共和国の首都)まで、汽車で僅か1時間そこそこだ。ハンガリーのブダペストへも、車をぶっ飛ばせば3〜4時間といったところ。
 ウィーンが東欧圏への窓口になったのは、当然の成行だった。
 
 さて、プラハはそのウィーンより西に位置する。ボヘミア盆地と旧西ドイツを隔てるのは、その名もズバリ「ベーマーヴァルト(ボヘミアの森)」だが、プラハから戦犯裁判で有名なドイツ・ニュルンベルクまでは、直線距離でたったの200キロ強なのである。
 
 チェコの有名な温泉地カルロビ・ヴァリ、マリエンスケ・ラーズニは、それぞれドイツ語でカールスバート、マリエンバートと呼んだ方が通りがよい。それこそ、ドイツから標高が箱根の山にも及ばない程度の森(山)を越えればチェコに着いてしまうのだから。冷戦時代は、そんなにも近いチェコスロヴァキアにソ連の核兵器が配備され、駐留ソ連軍が睨みを利かしていたのである。
 
 その人為的な分断が残した傷は、今日なお完全に癒えていない。
 
 それにしても、今年の欧州は寒かった。ロンドンは18年ぶりのドカ雪に襲われ、交通機関は麻痺。ロンドンのみならず英国全土が機能麻痺という有様で、喜んでいたのは学校が臨時休校になった子供たちだけであろう。
 ロンドンは、ひょっとすると東京より雪に弱いのではないだろうかと思った程である。

 大陸へ渡るのに毎回飛行機を使う私が、今回に限っては安い乗車券を入手出来たお陰でユーロスターに乗ったのだが、大正解だった。空港閉鎖の恐怖からは逃れられる。
 
 しかし、私がドーヴァートンネルを出るのを待っていたかのように天候は悪化。中欧全体、とりわけドイツ・チェコ・ポーランドを中心に大寒気団が居座り、ドカ雪を降らせた。
 
 本当に寒かった。インフルエンザの予防接種をしておいたお陰か、風邪だけはひかなかったことは幸運だったが、あの寒さにはほとほと参った。暖房の効いた部屋で仕事をしている時は感じずに済む寒さを、いわゆる「遊び」の時間には、たっぷり味あわねばならない。

 1週間の短期間だが、内容の濃い旅が出来たと思う。久々に鉄道旅行も楽しめた。切符を買う楽しさ、車窓を見る楽しさは、何度体験しても飽きることが無い。
 ベルリン〜プラハ〜ウィーンという経路だが、この3都市にまつわる、日本のカイドブックが絶対触れない話題を思うままに書いてゆく。
 
 一番長話をするのは当然、ベルリン。私の思い出の街であり、話し出したら止まらない。
 逸る筆をどうやって押さえようか、思案のしどころである。

ベルリンへ 軍人墓地  

 パリで知人と一年ぶりの再会を果たし、ベルリンへ飛んだ。幸い雪による遅れはなかったが、到着してからフランス全土に強風が吹き荒れ、主要空港が閉鎖となり欠航便が続出したことを知った。私は本当についていた。

 まもなく閉鎖となるテーゲル空港は旧西ベルリンの表玄関である。オットー・リリエンタールの名を冠した空港は小さく、大型機の発着は不可能。
 冷戦時代、西ドイツの表玄関はフランクフルト国際空港となり、東ドイツの表玄関はベルリン東南に造成されたシェーネフェルト空港となった。
 東西統一によってベルリンが首都に返り咲いたが、大きな国際空港を持たないというハンディを克服すべく、現在シェーネフェルト空港を「ベルリン・ブランデンブルク国際空港」として甦らせる大工事が進行中。
 東ドイツが遺した、数少ない「役に立つ遺産」だ。

 ホテルに荷物を置き、さっそく思い出の街へ繰り出した。日本のガイドブックが絶対触れない、日本人が行かない場所をご紹介するというお約束を、早速果たすとしよう。
 まずは軍人墓地、そしてドイツ・ロシア博物館だ。

 ベルリン中心部、近年オープンした巨大な「ベルリン中央駅」の北、かつて壁によって分断されていた地区に、軍人墓地がある。ここに埋葬された人々の中から、日本でも知名度の高い人々を列挙してみよう。

.殴襯魯襯函Ε侫ン・シャルンホルスト
       プロイセン陸軍中将 参謀本部初代総長
▲悒襯燹璽函Ε茱魯鵝Ε襦璽肇凜ッヒ・フォン・モルトケ
  (小モルトケ) 陸軍上級大将 ドイツ帝国参謀総長
アルフレート・フォン・シュリーフェン
          陸軍元帥 ドイツ帝国参謀総長
ぅ泪シミリアン(マックス)・ホフマン
          陸軍中将
ゥ魯鵐后Ε侫ン・ゼークト
          陸軍上級大将 陸軍統帥部長官
Ε凜Д襯福次Ε侫ン・フリッチェ
          陸軍上級大将 陸軍総司令官
Д┘襯鵐好函ΕΑ璽妊奪
          空軍上級大将 航空機総監
┘凜Д襯福次Ε瓮襯澄璽
          空軍大佐 戦闘機総監
ルドルフ・シュムント
          陸軍歩兵大将 ヒトラー総統副官

 如何であろうか。実はこれはほんの一部を列挙しただけなのである。その他にも錚々たる人物がベルリンのど真ん中に眠っている。帝都ベルリンの面目躍如といったところであるが、この軍人墓地は先述の通り、すぐ横をベルリンの壁が走った上に、旧東ベルリンに属するという不運に見舞われた。
 
 さらに言えば、軍人墓地は決して観光地ではない。欧州の大都市では歴史上の偉人を訪ねて墓地巡りをすることが、立派な趣味として市民権を得ているほどだ。
 日本人には理解しにくいセンスと見え、パリの墓地巡りには興味を示しても、東京の墓地巡りには怪訝そうな目を向ける人々が未だ多い。
 残念ながら、これが現実。

 そういうわけで、ベルリンの軍人墓地に日本人は私一人。遠い国からやってきた物好きな東洋人は、たちまちドイツ人の注目を浴びてしまったようである。
 
 Г離Α璽妊奪半綉藺臂の墓所には美しい花輪が置かれ、蝋燭に灯がともっていた。ナチ政権下の軍人とはいえ、ドイツ空軍の功労者として今なお顕彰されているのである。新鮮な驚きを感じた。
 
 ウーデットの墓に詣でていた年輩の夫婦と言葉を交わした。隣に眠る┐離瓮襯澄璽溝膾瓦魯襯侫肇凜.奪侫А紛軍)の英雄だったが、ウーデットの国葬に向かう途中乗機が墜落、事故死している。名誉の戦死として、ここに埋葬された。
 
 生きていれば、エーリヒ・ハルトマンに劣らぬ撃墜王として戦後の連邦軍でも活躍したろうに、とは年輩夫婦のご主人の言葉。

 △両モルトケは、鉄血宰相ビスマルクと共にドイツ帝国を創建する大功を打ち立てた偉大な参謀総長、ヘルムート・フォン・モルトケ(大モルトケ)の甥である。
 
 第一次大戦開戦時の参謀総長として西部戦線を作戦指導した。モルトケについては従来「シュリーフェン計画を水で薄めて失敗させた、叔父には似ても似つかぬ凡将」という評価が主流だったのだが、最近では違う評価が行なわれるようになっている。
 
 ドイツの国力を超えた二正面作戦に前提を置くシュリーフェン計画自体が、もともと不可能な作戦だった、小モルトケはそれを変化した現実に合わせるべく苦心したに過ぎないのだ、という。
 
 歴史の評価というのは難しいものだ。
 
 そのシュリーフェン計画で有名なシュリーフェン参謀総長も、で示したように、この墓地に眠る。

 そして、第一次大戦の二正面作戦の一つ、東部戦線でロシア軍を殲滅する戦功を上げたマックス・ホフマン中将(А砲里海箸鮓譴蕕佑个覆襪泙ぁ
 彼は日本にも極めて縁が深い人物だからだ。
 
 ホフマンは若き大尉時代、観戦武官として日露戦争に従軍している。ドイツに帰国後、第一次大戦ではヒンデンブルク、ルーデンドルフの下で第八軍参謀を務め、タンネンベルクの大殲滅戦を実現した。
 
 ホフマンが日露戦争を観戦したことが、十年後にタンネンベルクの大勝利に繋がった、と面白半分に書かれることが多い。
 
 奇しくも、東プロイセンに進撃してきたロシア軍の司令官はレンネンカンプ、サムソノフの両中将。満洲の荒野で我が帝国陸軍を散々苦しめた騎兵集団だ
 私も、日露戦争の公刊戦史附図に彼らの名が大書されていたのを覚えている。
 
 彼らの不仲を知っていたホフマン(満洲某駅のホームで二人が殴り合っているのを見たと言うのだが・・)は、それゆえロシア軍は協力体制をとれまいと読んだ、ということになっている。
 どこまで本気で受け取っていいものか分からぬが、歴史小説家が面白おかしく取り上げそうな話題ではある。

 さて、それはさておき、これほど日本に縁のある人物だったのにホフマンについては満足な伝記一冊翻訳されていない。ホフマンのその後が不遇だったこともあるのだろうが、実に面妖な話ではないか。
  
 スイス国境に近いフライブルクの連邦軍事文書館に行けば、ホフマン関係の文書は膨大に残っているはずだ。日露戦争関係、タンネンベルク会戦関係、そしてブレスト・リトフスク講和関係の三つだけでも、凄い量になると思う。
 ドイツ近代史、とりわけ軍事史・外交史を専攻する専門家の奮起を期待したい。

 最後に、のシュムント大将について。
 彼はヒトラーの副官にして友人だった。1944年7月20日、東プロイセン・ラステンブルクの大本営「狼の砦」で起こったヒトラー暗殺未遂事件の際、爆弾によって重傷を負い、その傷が元で二ヵ月後に死去。
 死後、少将から歩兵大将に進級。

 総統大本営の会議室に爆弾を持ち込んだのは、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐。アフリカ戦線で左眼、右腕を失った傷痍軍人である彼が、国内軍参謀長の立場でヒトラーの足元まで爆弾を持ち込んだ。
 作戦名を「ワルキューレ」という。

 その爆弾でシュムント少将を含む4名が死亡。ヒトラーは軽傷を負っただけで助かったが、この事件によって国防軍を含む反ナチスグループは壊滅状態にされる。ゲシュタポ(秘密国家警察)の報復は凄まじく、戦後西ドイツ初代首相となったコンラート・アデナウアーまで逮捕の網は広がった。
 国民的英雄ロンメル元帥も自殺を強要されることに。

 さて、今度の旅行中、方々の駅に映画『オペレーション・ワルキューレ』のポスターが貼ってあった。言うまでもなく、この事件を描いた映画である。日本での公開は3月だそうだが、欧州では既に公開されているようである。

 しかし、主役のシュタウフェンベルク大佐がトム・クルーズとは・・・。正直、違和感ありまくり、といった感じ。英語を喋るドイツ軍人というのは、どうも。
 同名のドイツ映画(DVD)を借りて観たことがあるが、こちらは見応えがあった。
 あまり期待しないで、見に行くことにする。

 さて、この辺で切り上げ、Sバーン(国電)に乗って移動するとしよう。

ベルリン ドイツ・ロシア博物館    

 ベルリン東部、旧東ベルリンの一角にカールスホルストという場所がある。現在は閑静な住宅地であるが、その一角にあるのがドイツ・ロシア博物館だ。

 展示内容を要約すれば、独ソ戦博物館、と言った方が正確かもしれない。

 博物館が開設されたのは冷戦時代、すなわち東独共産主義政権の下である。ベルリンとドイツを「解放」した恩人としてのソ連を顕彰し、ナチスドイツの暴虐を告発する、というトーンの展示だった。

 もう一つ大切なことを述べよう。この博物館は1945年5月8日、ドイツが連合国代表の前で無条件降伏文書に署名した場所であり、その調印式会場となったホールは今も当時のまま保存され公開されている。
 と言うより、ソ連万歳史観に基く独ソ戦展示の終わりに、降伏調印式会場が来るという構成だった。

 博物館の建物は旧ドイツ軍工兵学校の講堂。周囲には今も工兵学校当時の建物がそのまま残り、運動場は市民のための競技場としてそのまま利用されている。

 ソ連崩壊によって東独共産主義政権も崩壊。
 正に「親亀こければ子亀こける」の例え通りだが、続くドイツ統一によって博物館の展示内容も大幅に変えられた。独ソ戦の展示も、以前に比してより客観的な説明に変わったという。
 今は、ロシア革命からドイツ統一までの独露関係史全般を概観する博物館に生まれ変わった。

 余談。
 戦前ドイツ参謀本部のあったベルリン南部のツォッセン〜ヴュンスドルフにかけて、戦後ソ連軍の大基地が設けられた。旧ドイツ軍の施設をそのまま使用したのだが、彼らは撤収時、それこそ便器まで外して持ち帰ったという「武勇伝」がある。
 十年以上前に一帯を見学したが、戦前の建物の立派なことに驚かされたものだ。案内を頼んだタクシー運転手が、手元の紙に色々と書いて説明してくれた。ここが総統親衛隊の訓練施設だった、ここがヒトラーユーゲントの施設だった、これが給水塔、兵舎だと。嬉々として語る彼を見て、連合国の宣伝を鵜呑みにしては歴史の真実を見失うと、改めて思った次第。

 博物館に話を戻す。
 先述のように、展示内容はロシア革命から始まる。第一次大戦の最中に起こった革命で帝政ロシアは崩壊。それは東部戦線の圧力がなくなるという僥倖をドイツにもたらしたが、戦争そのものは結局ドイツの敗北に終わった。
 
 ロシア革命で廃位され殺害された皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラはドイツ人(ヘッセン・ダルムシュタット出身)であり、ヴィクトリア英女王の孫娘である。
 この一事に限らないが、ロシアとドイツの縁は深い。帝政時代、ロシア宮廷がフランス語の世界だったことは有名だが、インテリはドイツ語もよく解した。

 ナポレオン戦争からウィーン体制の構築、そしてクリミア戦争の時代まで活躍し、ロシア宰相となったネッセルローデはバルト・ドイツ人だった。ナチスドイツのイデオローグだったアルフレート・ローゼンベルクもバルト・ドイツ人であり、ドイツ語よりむしろロシア語が上手かったと聞く。

 そうした深い縁のある独露関係はロシア革命後も続く。博物館の展示は、ラッパロ条約から独ソ不可侵条約によるポーランド分割(第4次ポーランド分割とでも言うべきだろう)に至る歴史を、一次史料を展示しながら概観している。 

 やがて始まる独ソ戦関係の展示が質量共に圧倒的だが、もはやソ連によるドイツ「解放」という共産党史観は影を潜めた。むしろ、二つの全体主義体制による死活の闘争、という線を前面に打ち出した構成に変えられている。
 
 戦後の東独共産党政権(社会主義統一党)にまつわる展示も、極力公平なものである。イデオロギーによる歴史の書き換えが如何に国民を不幸にするか、苦い歴史の教訓を学んだ結果だと好意的に評価したい。
 
 そして最後に、先述の降伏調印式ホールである。米英仏ソの国旗が掲げられ、水差しもコップもそのままだ。このホールで、カイテル元帥らが降伏文書に署名したのが5月8日。
 実は、ドイツは前日の5月7日、フランス・ランスにあったアイゼンハワー元帥の司令部でも降伏文書に署名させられている。こちらの方は確か高等学校の校舎になって現存していると聞いた覚えがあるが、残念ながら私は訪れたことがない。
 ホールでは署名するカイテルらの映像が上映され、ガラスケースの中に文書の写しが展示されている。
 ちなみに、ホールの隣はジューコフ元帥の執務室。
 
 質量共に見応えのある博物館だが、残念なのは展示解説がドイツ語、ロシア語のみということ。販売している小冊子には英語版があるのに。展示解説にも英語を加えて欲しい、と要望をメモにして出しておいた。
 
 欧州大戦は、日本にとって決して遠い場所で起こった遠い出来事ではなかった筈である。そもそも、日本が対米英戦(大東亜戦争)を決断した大きな動機の一つは欧州の戦況、具体的にはドイツ有利という情勢判断だったのだから。
 戦後の日本人はすっかり忘れてしまったけれども。

 ベルリンへ行く機会のある方は、是非カールスホルストへ足を運んで頂きたい。Sバーン(国電)カールスホルスト駅から、市営バスで5分程度。徒歩でも20分位だろう。

 欧州大戦を通してみる日本の姿は、通常のイメージとは全く違って見えるかもしれない。
 

ベルリン 新ドイツを求めて 戦前・戦後のイメージと現実  

 些かオーバーな表題だが、話したいことは2点ある。
 ドイツ抵抗記念館、およびシュタージ博物館のことだ。前者は反ナチ抵抗運動に携わった人士の顕彰博物館、後者は東独共産党政権による人民抑圧の様を生々しく伝える博物館。

 理想とするものは異なり、かつその評価は分かれるが、いわば近代ドイツの辿った悲劇、そしてドイツ人の生真面目さが生んだ、他国から見れば滑稽ささえ感じさせるその結末を知るのに、これほど適した場所はあるまい。
 
 しかも前者は入場無料、後者は僅か4ユーロ。旅費の節約にも最適ではないか。

 前者から始めよう。
 ここはヒトラー政権の誕生から、軍人墓地の項でお話した1944年7月20日の総統大本営におけるヒトラー暗殺未遂事件に至る、ドイツ国内の反ナチ抵抗運動を紹介する博物館兼資料館である。
 
 ベルリン中心部にある大公園、ティアガルテンの南側に、かつてドイツ国防省の建物があり国内軍司令部が置かれていた。その国内軍で参謀長を務めていた傷痍軍人シュタウフェンベルク大佐が、総統会議室に爆弾を持ち込んだことも既に触れた。
 ドイツ抵抗記念館は、その旧国防省の建物を利用している。ここは昔ベンドラー街と呼ばれ、その名は国防省の代名詞だった。現在は7月20日事件を始めとする反ナチ抵抗運動従事者に敬意を表し、シュタウフェンベルク街と改名されている。

 中庭のある四角形の立派な建物だが、中庭の壁にはシュタウフェンベルク大佐以下、即決裁判で銃殺刑に処せられた4名、および自決した元参謀総長ルートヴィヒ・ベック上級大将の慰霊碑があり、献花が絶えない。

 戦後の西独では、シュタウフェンベルクらを反ナチの闘士として顕彰している。それは事実なのだが、そのような価値観に至った実情は我々が考えているほど単純なものではないようだ。
 
 ナチス政権が崩壊し新生ドイツ連邦共和国が発足しても、反ナチ抵抗運動に従事した人々とその家族には、戦後暫くの間冷たい視線が注がれたという。
 「国家叛逆者」として。
 教科書が決して書こうとしない、現代史の一面である。

 館内にはシュタウフェンベルクがクーデターを指揮した部屋、ベック上級大将が自決した部屋がそのまま残されている。

 爆弾炸裂後、ヒトラーが死んだと確信し、東プロイセンから飛行機でベルリンに舞い戻ったシュタウフェンベルク大佐はクーデター遂行に全力を尽くすものの、最後は失敗して銃殺刑に。ちなみに、ニーナ・シュタウフェンベルク大佐夫人は2006年に亡くなった。ご子息の一人はドイツ連邦軍の軍人となり、英国駐在武官を務めている。

 彼らの理想としたドイツは、いわゆる英米型の政治体制ではなかった。英米型をモデルとして建国されたドイツ連邦共和国、そして英米型をモデルとして建軍されたドイツ連邦軍の価値観で彼らの行動を単純に評価することは、些か的外れという気が私個人はする。
 歴史の評価は難しいと先に書いたが、全く同じことを述べておきたい。

 それでも、西独はまだしも真摯に過去の歴史に向き合ってきた方なのだ。
 悪質極まりないのは東独共産主義政権である。

 東独は「ナチスの過去と決別した人民民主主義政権」を謳い文句にしており、過去と縁を切った以上、過去のドイツの行為には一切責任を負わずという態度をとり続けてきた。
 従って、彼らは日本の左翼が大好きな「近隣諸国への謝罪・賠償」は一切行っていないし、鐚一文(ペニヒ?)も金は払っていない。

 実は、東独共産党政権を支えた人民軍、秘密警察シュタージの中核を担ったのが旧ドイツ国防軍、ゲシュタポに奉職した人士だったことは、厳然たる事実である。
 それでも言い逃れと詭弁を弄する共産党、共産主義者はやはり生来の嘘つきなのだ。

 連合国から壊滅状態(デベラティオ)と決め付けられ、そのため戦争を法的に終わらせる講和条約を締結する資格さえ奪われてしまったドイツ連邦共和国(西独)が結局、全てのツケを払う恰好となった。
 講和条約で賠償を一括解決するチャンスを逃した西独は、個別かつ延々と提起される外国の賠償請求にその都度応じる他なく、まるで蟻地獄に嵌まってしまったような状態に。

 ドイツはこれから、冷戦による分断時代の総括という大仕事に取り組まねばならない。その歴史的評価が定まるのは、果たして何年先のことだろう。

 ここから、後者について語る。
 東独共産党政権が生み出した最大かつ最悪の組織、それが東独秘密警察、通称シュタージだ。
 
 桑原草子『シュタージの犯罪』(中央公論社、1993年)という大著がある。説明責任を放棄するわけではないが、はっきり言って、私の解説などより、この一冊をお読み頂いた方が早い。
 
 親子兄弟、夫婦、友人、人間には色々な関係があるし、それが機能して日常生活が成り立っているのだが、東独の悲劇は、これら普通の人間関係がそのままスパイ組織として機能したことにある。
 親子兄弟、夫婦、その他がお互いをシュタージに密告しあうという、信じ難い事態が東独では日常的に起こっていた。
 恐らくソ連KGBも、ナチ時代のゲシュタポも真っ蒼だろう。

 その信じ難い事態が事実であることを我々の眼前に突き付ける博物館が、旧東ベルリンにある。
 シュタージ博物館。
 地下鉄5号線をマグダレーネン通り駅で降り地上に出ると、そこは、モスクワを思わせる無機質な下駄履きビルの並ぶフランクフルト街(旧カール・マルクス街)。東独がソ連スタイルを真似て作った「社会主義的計画都市」だと一発で分かる。

 その無機質な下駄履きビルの中に高島平の巨大団地群を思わせる複合施設が聳えているが、ここがシュタージの本部だった。

 秘密警察の本部がそのまま博物館になった例など、世界に前例がないように思う。

 展示内容は、凄い、の一言に尽きる。
 ドイツ人ならではの徹底振りが、である。政治犯の独房(事実上の拷問室だろう)まで展示してしまうとは、皮肉ではなく流石にドイツだと思う。
 圧巻は、シュタージのボスとして君臨し絶大な権力を振るったエーリヒ・ミールケの執務室が、秘書の部屋まで含め全部公開されていること。
 見ていて背筋が寒くなった。 

 国民生活の末端まで水も漏らさぬ監視体制を作り上げた東独社会主義統一党は、ほぼ全国民の私生活を網羅した膨大なファイルを、建国から消滅までの約40年間にわたって集積し続けた。
 その全ファイルが東独崩壊後、一般の閲覧に供された。

 その凄まじいばかりの内容、プライバシーの片鱗もない恐るべき密告・監視体制に、東独ばかりか全ドイツ国民が腰を抜かし、肝を潰したという。
 下手をすれば、国家崩壊に繋がりかねない。私に言わせれば、統一ドイツが20年間、まがりなりにもやってこれたこと自体が偉業だと思う。

 またも私事に亘るが、私はベルリンの壁が健在だった時代のベルリンを知っている。一日ヴィザで西ベルリンから東ベルリンへ入った時の言いようのない暗さ、フリードリッヒ・シュトラーセ駅での強制両替、警察官の監視等々、今では信じられないような逸話だ。
 
 東ベルリンは一日ヴィザで入国出来たが、東独国内の旅行は東独国営旅行社ライゼビューロー(ドイツ語で旅行社の意味そのままである)で各地のホテルの空室を確認し、予約を入れて初めて観光ヴィザが下りる仕組みになっていた。
 
 外国人旅行者の宿泊出来るホテルは「インターホテル」と呼ばれ、外観だけは西側水準を確保していたが、部屋の設備やレストランなど細かい点は流石に劣った。東独の場合、世界最高水準の西独と比較出来るだけに猶更、粗が目立ったのだろう。

 それでも、東独の庶民にとって「インターホテル」の食事など高嶺の花。庶民の貧しさは言うまでもなかった。共産主義とは正に「貧しさにおける万人の平等」だったと痛感する。

 それはともかく、「インターホテル」に泊まる外国人観光客の個人データは全てシュタージに送られ、部屋によっては盗聴器も付いていたといわれる。少なくとも、電話の盗聴は完璧に行われていたらしい。
 私のかけた電話も当然盗聴の対象になったろう。通話内容はともかく、宿泊記録と通話記録はシュタージの膨大なデータの片隅に必ず残っているはずだ。
 「朝鮮人が大嫌いなヤパーナー」のデータが。 

 そうまでして「危険人物」である外国人観光客を入国させたのは、当然、外貨が欲しいから。
 共産主義とは何と矛盾だらけの存在だったのだろう。

 口を開けば人権・人権と喚く輩が後を絶たない。そういう者たちは、まずベルリンのシュタージ博物館を見学し、シュタージの残した膨大な個人情報記録ファイルを見よ。
 シュタージ博物館こそ、正に真の意味における人権博物館だと思う。「神奈川人権センター」「ピースおおさか」など建てた者共は、己を恥じるがよい。

オーデル・ナイセ線にもシェンゲン協定  

 ベルリンを出発する前に、少し寄り道したい。寄り道が終わったら、いよいよ鉄道でザクセン経由チェコへ向かう。

 シェンゲン協定というのをご存じであろうか。
 出入国管理政策と国境システムの共通化を図った協定で、英国およびアイルランド以外の全欧州連合(EU)加盟国、アイスランド、ノルウェー、スイス、リヒテンシュタイン(以上EU非加盟)が調印し、そのうち25ヶ国が施行している協定だ。
 これによって、協定加盟国間の国境検問所は廃止された。

 ドイツ・ポーランド国境(オーデル・ナイセ線)にもシェンゲン協定が適用され、国境検問所が廃止されたというニュースを聞いたのは、確か昨年のことだったと思う。
 
 長らく、戦後欧州における国境問題の代表的事例として取り上げられることの多かったオーデル・ナイセ線。

 ドイツは戦後、東部国境をオーデル川とナイセ川(ラウジッツ・ナイセ川)を結ぶ線とされ、それより東の広大な領土(東プロイセン、シュレジェン、ポンメルン)を喪失した。東部地域に住むドイツ人は文字通り着の身着のまま、追放された。避難民として西へ逃げる際、ロシア人やポーランド人によって報復・虐殺された人々も多い。

 西独の地理教科書には「忘れえぬ東部ドイツ人居住地区」という1章が設けられ、失われた領土について詳しく紹介している。ご興味がおありの向きは、帝国書院刊『世界の地理教科書 西ドイツ編』をご参照頂きたい。

 このオーデル・ナイセ線を、西独は戦後長く承認してこなかった。西独政府は、旧西独地域を連邦共和国、旧東独を「ソ連占領地域」、そしてオーデル・ナイセ線以東の喪失領土(以下、東方領土と呼ぶ)を「ポーランド管理地区」および「ソ連管理地区」と呼び、その旨地図にも明記していたのである。

 しかし、西独政府はブラント社民党政権の「東方外交」以来その姿勢を後退させ、ドイツ統一の代償として事実上、東方領土を放棄したようだ。
 この曰くつきの国境にシェンゲン協定が適用され、国境検問所が消えた。隔世の感あり、である。

 ベルリンを朝8時台の列車で発った。行先はフランクフルト・アン・デア・オーデル、ドイツ・ポーランド国境に位置するオーデル河畔の街だ。(ドイツ語では「フランクフルト・オーダー」と発音するが、ここではオーデルと表記しておく。)

 かつてハンザ同盟に加盟していた由緒ある街フランクフルト・オーデルは、独ソ戦におけるベルリン攻防戦の前哨戦、すなわちオーデル渡河地点として大激戦地に。フランクフルトから数十キロ北には「ゼーロウ高地」という場所があり、ベルリンを北から包囲しようとするソ連軍がここで大苦戦を強いられた。今はソ連軍墓地と慰霊碑が立っている。

 戦後、フランクフルトはオーデル川が国境となったことで市街地が2つに分断され、川の向こう岸(旧フランクフルト・ダムフォアシュタット)はポーランド領ズービチェとなった。
 
 ポーランドを旅行していると、旧ドイツ領だった地域が直ぐ分かる。赤い屋根のドイツ家屋にポーランド語の看板がかかっているだけだからだ。鉄道駅も、並木道も、全部ドイツ人の作ったインフラなのである。

 フランクフルト・オーデル駅に降り立った私は、市街地へ向かう緩い坂道を下り、早速、国境検問所の無くなった国境の橋へ。パスポートを見せることなく川を渡って、難なくポーランド領ズービチェへ入ってしまった。

 偉大なるかな、シェンゲン協定。

 川の大きさといい橋の長さといい、まるで多摩川を渡って川崎市から狛江市へ入る、といった感じ。もちろん河川敷は遥かに広大なのだが。
 しかし、オーデル・ナイセ線のもう一つの「主役」ナイセ川に至っては、近所の放水路という感じの小さな川でしかない。
 人為的国境線の不自然さが、まざまざと感じ取れる。

 国境というのは不思議なものだ。橋の向こうはドイツ語、ユーロの世界なのに、ここはポーランド語、ズオティの世界。街並みがドイツ時代のままだけに、余計に不思議なのである。
 国際政治というのは、一種の魔物なのだろう。

 ポーランドの街角に多くあるカントル(両替所)が、小さなズービチェの町にもたくさんあった。東洋人など珍しいのか、街角でビールを飲む親父さんが私を見る。
 くたびれたポーランドの街の光景が、そこにあった。資本主義経済の荒波に曝され、恐らく旧東独以上の苦労を味わっているのだろうと思う。

 1時間ほどズービチェをぶらつき、橋を渡ってドイツへ戻った。フランクフルト市街の高層ビル上にある喫茶店でコーヒーを注文し、オーデル川と国境の橋、そしてさっきまで歩いていたズービチェを見下ろす。
 
 オーデル川の向こうに広がるポーランド領を見ながら、かつてはリトアニアの国境ティルジット(現ロシア共和国ソビエツク)までドイツ領土だったのだ、と感慨に耽った。「マース川からメーメル川まで」というのがドイツ国歌の歌詞だった、と。
 北海道から見た樺太、国後島(千島列島)のことを思い出しながら。

 国境の意味を改めて考える一日だった。

 さあ、明日はチェコへ行こう。

プラハへ向かう   

 扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず
 みやげを提げていざ立たん あとに名残は残れども

 大和田建樹『鉄道唱歌 東海道編』53番の歌詞である。
 そういう心境で私も京都ならぬ、ベルリンを鉄道で離れることにする。何時までもベルリンに留まるわけにもいくまい。

 日本の書店で市販している『トーマスクック ヨーロッパ鉄道時刻表』で下調べした特急の指定席が、運よく買えた。満席ならそれこそ乗車券だけ持って乗り込んでしまい、車掌から少々割高の特急券(日本と違って欧州の特急券・指定席券は数百円と安い)を買い求め、食堂車で時間を潰せばよいのである。

 乗った列車は、ハンブルク発ベルリン・プラハ・ブルノ・ブラチスラバ経由ブダペスト行きユーロシティー。食堂車もついた堂々たる編成である。走行時間12時間強。飛行機に乗れば成田まで飛んで行ってしまうだけの時間を走り続ける、欧州ならではの国際列車。客車はドイツ鉄道の車輌、食堂車はハンガリー国鉄の車輌であった。

 私が乗車したのはベルリン中央駅〜プラハ・ホレショヴィツェ駅間、約5時間である。もちろん、2等車だ。

 車窓風景を延々と書くより、先を急いでプラハに行くべきだろう。それでも、古都ドレスデンについて少しだけ触れたい。今回は通過しただけだが、ここで「途中下車」する価値はある街だと思うから。
 
 かつて「エルベ川のフィレンツェ」と謳われた古都ドレスデンは、欧州一美しい街として有名だった。特にその民家の街並みは見る者を圧倒したらしい。
 
 しかし、1945年2月13日〜14日の大空襲でドレスデンは灰燼に帰した。1960年代ここを訪れた日本人は、夕暮れの駅に着いたとき声を上げて驚いた、という。戦後20年近く経ったというのに、駅前の建物は未だ瓦礫のままだったからだ。

 ドレスデン空襲の酸鼻さについては、児島襄『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い』第9巻(文春文庫版)に、詳しい描写がある。

 そのドレスデンに聳えていた聖母(フラウエン)教会は、空襲自体には耐え抜いたものの、その後、自重で崩壊してしまった。焼夷弾の凄まじい熱によって、石が発泡スチロールのように膨らんでしまったのが原因とか。
 
 東独時代、その残骸は片付けられることなく「戦争責任の記念碑」として醜い姿を曝していた。しかし、ドイツ統一後、聖母教会を元の姿に復元する大プロジェクトが立ち上がり、遂に完工を見たのである。
 
 実は、私も20マルク(当時のレートで1500円程度)ほど再建資金を寄付し、自分の氏名をプレートのようなものに書き込んだ。大した寄付は出来ないが、いい記念になる。

 列車がドレスデン中央駅に向かって低速でエルベ川の鉄橋を渡るとき、聖十字架教会、センパーオペラ(国立歌劇場)等の美しい姿が見えた。
 再建成った聖母教会とは、初めての対面となった。あのどこかに、私の名を書いたプレートがある筈。いいことをしたと自己満足に浸ることをお許し願いたい。
 
 そもそも、旧東独に残した自分の足跡がシュタージのブラックリストでは堪らないし、何よりやり切れぬではないか。

 列車はドレスデン中央駅を出発、エルベ川に沿って走り、やがて国境駅バート・シャンダウに小停止した後、いよいよチェコに入る。

百塔の街プラハ   

 プラハへ来るのは約12年ぶりだ。

 私如きが今さら言うまでもないことだが、プラハは美しい街である。百塔の街の例え通り、教会の尖塔が空に舞うという感じ。
 戦災の不幸を逃れた欧州の街の姿が、そのまま現代に残る。

 映画『アマデウス』を撮影したのは、実はプラハだった。昔ながらの欧州の姿を残すプラハをウィーンに見立てたのである。ウィーンは近代都市になり過ぎ、モーツァルトの生きた18世紀のくすんだ味は到底出せなかったのだろう。

 そのモーツァルトは現実にプラハを熱愛した。彼の歌劇『ドン・ジョバンニ』を初演したのはプラハだったし、彼が35歳の若さで早世した時、プラハの教会では追悼ミサが行われた。故郷ザルツブルクも、活躍の舞台ウィーンも生前の彼には冷たかったのだが、プラハは違った。

 チェコは音楽の国である。プラハといえばモルダウ川を浮かべる日本人は多いが、モルダウはドイツ語であり、チェコ人はブルタバ川と呼ぶ。
 巨匠スメタナの不朽の名作『我が祖国』を知らなくとも、「モルダウ」のメロディーを聴いたことのない人はいまい。

 『新世界より』のドボルザーク(日本人の耳には、チェコ語の発音がドボルジャークと聞こえるが)、そして『フィレンツェ行進曲』『剣士の入場』で有名な「ボヘミアのスーザ」ことフチークも、チェコ人だ。ちなみに、フチークはドボルザークの直弟子。彼も若くして世を去ったが、日本人にも馴染み深い曲を残している。
 
 文学に興味のある方は、『変身』『審判』のカフカ、戯曲『ロボット』のチャペックといったところか。

 狭い旧市街を徒歩で一巡しても、せいぜい2〜3時間。プラハはその位小さな街だ。アールヌーボーの市民会館、火薬塔、ティーン教会、フス像、旧市庁舎を一巡し、カレル橋を渡り、丘の上に聳える巨大なプラハ城へ。
 そこから下って再びブルタバ川を渡り、ドボルザーク劇場を見つつ、シナゴーグの立ち並ぶユダヤ人地区を通り、フス像のある旧市庁舎広場へ戻る。
 入場・見学時間を入れればやや長くなるが、それでも1日あればお釣りが来るだろう。
 普通の観光なら、これでジ・エンドである。

 しかし参った。仕事抜きで外国の街を自由に歩くのは久し振りであり、実際楽しみにしていたのだが、観光という奴がこれほど体力を消耗するものだとは。
 足が棒のようになってしまった。如何に運動不足であり、体が鈍り切っているか、ということだろう。

 夕食はチェコビールに、クネドリーキの添えられた肉料理。腹ごしらえをした途端、どっと疲れが出る。その日は早めに宿へ帰り、寝てしまう。

「暁の七人」の舞台は今   

 プラハを再訪したら、是非訪れてみたかった場所がある。

 第二次世界大戦中の1942年5月27日、ナチス・ドイツ占領下のプラハで大事件が起こった。ベーメン・メーレン保護領総督ラインハルト・ハイドリッヒSS大将が、チェコ人の投擲した爆弾で重傷を負い死亡したのである。

 ヒトラーの信任厚く、優れた行政手腕を発揮したハイドリッヒの存在によって、ドイツのチェコ占領統治は予想外の成功を収めつつあった。これに危機感を抱いた英首相チャーチルがハイドリッヒの暗殺を計画、英空軍機でチェコ人部隊を空路チェコ領内へ降下させたといわれる。
 コードネームを、エンスラポイド(類人猿)作戦という。

 首尾よくハイドリッヒを葬ることには成功したものの、後任総督となったフランクは執拗な探索の手をチェコ全土に伸ばし、そのため、暗殺部隊は厳重な監視体制の敷かれたプラハからの脱出が極めて難しくなってしまう。

 ドイツ側の厳しい追及に、家族を皆殺しにされると恐怖を抱いた仲間の一人がドイツ当局に仲間の隠れ場所を密告、彼らはプラハ市内の教会に隠れているところをドイツ軍に包囲される。
 熾烈な戦闘の後、その殆どが斃れ、地下室に立て篭もった最後の2人もドイツ軍の手に落ちることを潔しとせず、自決して果てた。

 この実話を元に作られた映画が、『暁の七人』(英語題オペレーション・デイブレイク 1975年 米国)である。戦争映画の力作だと思うのだが、残念なことにDVD化されておらず、近年アマゾンで漸くビデオ版を手に入れることが出来た。
 
 有名なリディツェ、レジャーキ両村の悲劇は、ハイドリッヒ暗殺に対するドイツ当局の報復だったことは言うまでもない。

 さて、私はこの映画を見て以来、プラハを再訪する機会があったら是非、映画の舞台となった教会に行ってみたいと思っていた。旧市街の観光案内所でその旨告げると、案内係は大きく頷き、プラハ市街図を広げるとボールペンで一点に丸をつけた。
 そこは地下鉄駅からもブルタバ川からも近く、ほぼ繁華街の中と言ってよい場所である。

 その教会は、聖セシル・メソディウス教会、という。

 協会の扉を開けると正面にイコンが。
 そうなのである。ここは東方正教会だったのだ。カトリックではない、オーソドックス。

 司祭(神父?)に来意を告げると、彼は英語版の解説書を一部くれた。百聞は一見に如かずとはよく言ったものである。私は映画を見ることで、勝手にカトリック教会のイメージを頭の中で膨らませていた。
 迂闊だった。

 教会は映画のロケに使われたどこぞの教会に比べれば小さかったが、彼らの立て篭もった地下室は現存しており、ドイツ軍が水を流し込んだ換気口も実在していた。
 外の路面には「1942」と記されたモザイクが埋め込まれ、また壁に設置された銘板には戦死者氏名が刻まれており、花輪が捧げられている。
 しばし黙祷。

 こういう悲劇の歴史を経験したチェコスロヴァキアは、戦後、今度は共産主義という恐るべき妖怪に取りつかれ、苦悩の日々を送る羽目になる。

 1948年2月のチェコ政変(ゴットヴァルト共産主義政権樹立)が欧州の冷戦に占める重要性は、ご存じのように高校の世界史教科書にも載っている。
 
 チェコ政変の翌月、ヤン・マサリク外相(共和国初代大統領トマーシュ・マサリクの子息)が、外務省中庭で変死体となって発見された。冷戦時代すなわち共産党政権時代、これは公式に自殺と断定され、異論そのものがタブー視されてきたのだが、現在では共産党当局による殺害という説が有力だという。
 
 冷戦と言えば、あの「X論文」を書いた米国の外交官ジョージ・ケナン(2005年没 享年101歳)は、若い頃プラハに勤務した。ドイツ軍のプラハ進駐もその目で見たはずである。
 
 米国冷戦政策の重要な設計者だったケナンが、欧州の要地ボヘミア盆地で見聞したことの意味は小さくないだろう。プラハの経験が、必ず「X論文」その他の執筆に生かされた筈だからである。
 ケナンの著作の愛読者である私として、感慨無量だ。

チェコ製品は優秀だった  

 
 既にお気づきだろうが、私は乗物マニア、今はやりの言葉を使えば「鉄ちゃん」ないし「テツ(鉄)」である。

 「鉄分」の濃さでは熱狂的マニアに劣るかもしれないが、とにかく好きなことに変わりはない。最近では、鉄道の好きな女の子のことを「鉄子」とか言うそうで、「鉄道むすめ」などというキャラクターまで登場している。

 下らぬ話はともかく、プラハ滞在中、私はプラハ中央駅、およびホレショビッツェ駅のプラットホームに行き、列車をじっくり見てみた。欧州の駅は改札口がないから、ホームへの出入りに入場券を買う必要はないのである。

 チェコの駅には、旧東独やポーランドと違ってロシア語の表記が一部残っている。これは面白い発見だった。大事なサインは基本的に「チェコ語、ドイツ語、英語」の順番で記されているが、一部にロシア語表記がそのまま残されており、ホレショビッツェ駅ホームから地下通路へ下りる階段のサインは上から「チェコ語、ロシア語、ドイツ語」で記されていた。
 
 旧東欧圏でも若い人々は難なく英語を理解してくれるのだが、中年以上の人々の共通語はドイツ語、ないしロシア語である。旧東欧圏を歩く時に、ドイツ語は必需品。
 ナチスの占領云々ではなく、旧東欧圏の大部分は「オーストリア・ハンガリー帝国」領土だったという史実を、まず想起されたし。

 閑話休題。
 電車方式が主流の日本と違い、欧州の鉄道は機関車が客車を牽引する方式が主流。「欧州版新幹線」であるフランスTGV、ドイツICEも全て機関車方式である。
 
 プラハ駅で見た電気機関車は全て、チェコ「スコダ(シュコダ)」製だった。

 スコダは、本社をビールで有名なプルゼニ(ピルゼン)に置く大会社である。鉄道車輌のみならず、兵器、重電機械等も生産する大財閥で、かつては欧州最大級の企業体だった。

 日本人にとって忘れ難いのは、スコダ製の機関銃。支那事変時、我が帝国陸軍に大損害を与えた支那軍の機関銃はチェコ製だったのである。支那国民政府軍を支えていたのは、ドイツ軍事顧問団(ゼークト、ファルケンハウゼン)にチェコ製火器。
 死の商人ほど逞しい者はいない。

 故障だらけの日本製に比べ、チェコ製機関銃は優秀だったそうだ。支那戦線に行った将兵は、内地へ戻ると工学専攻の学生たちに「頼むから故障しない機関銃を作ってくれよ」とぼやいていたらしい。

 確実に弾が発射され続けることが重要なのであり、見てくれや命中率など二の次三の次、それが戦場の現実だ。

 色々な意味で面白い国なのである、チェコは。
 日本人の関心がもっと広がればいいのだが、と切に思う。

ウィーンへ  

 
 プラハ発ウィーン行きの列車の切符は難なく取れた。ガラガラだったから。旅行には最悪の時期なのだと改めて思うが、気候のいい時は大混雑するのだから仕方があるまい。

 全席指定の特急は、チェコ国鉄ご自慢の「スーパーシティ」だ。車輌はイタリア製振り子式電車「ペンドリーノ」。カーブに差し掛かると車体が傾き、スムーズに走行出来るという奴だ。
 日本でも中央本線を走る特急「しなの」、伯備線を走る特急「やくも」が採用しているし、台湾でも日本製振り子式電車が「太魯閤(タロコ)」号として東海岸本線で活躍している。
 
 私が乗ったのは特急「アントニン・ドボルザーク」号。プラハ中央駅発ウィーン南駅行きで、走行時間は4時間強。
 列車は定刻どおり出発した。

 チェコの雪原を延々と走り続ける列車。単調な景色に眠気を催しウトウトしていたが、途中停車駅の一つブルノ(ブリュン)に着いた時だけは、流石に目が冴えた。
 
 ここはウィーンから1時間半ほどの距離にあるが、チェコ東部モラビア地方の中心であり、プラハに次ぐチェコ第2の都市である。この街の名声を世界的なものとした人物が、「遺伝の法則」を発見したメンデル。彼はブルノで同法則の理論を打ち立て、実験に成功した。その業績を記念する史跡があるそうだが、私は未だ見たことがない。

 もう一つ言わせていただくと、ブルノ郊外にある小さな村スラフコフ・ウ・ブルナが、ナポレオンの古戦場として有名なアウステルリッツである。いわゆる「三帝会戦」だ。
 もちろん、今回は途中下車している時間なし。

 列車は呆気なく国境を越えオーストリアへ入る。30分もすると「ドイッチェ・ワグラム」駅を通過。ここはもう、ウィーンの郊外である。具体的に言うとドナウ川の北側。周囲は一面の平原だが、ここもまたナポレオンの古戦場である。ワグラム(ドイツ語ではヴァグラム)の戦いで、ナポレオンはオーストリアを最終的に屈服させた。1809年戦役という。

 ウィーン市街地に入る直前、ドナウ川の鉄橋を渡った。ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)から流れてきたドナウ川は、約2900キロ先の黒海まで長い旅をする。
 ウィーンはドナウ全体から見るとまだまだ上流なのであるが、流石に大陸の川だけあって、川幅はかなり広くなっており水量も豊かだ。

 ドナウ川航行管理権問題というのがあって、遠いロシアまで巻き込んだ外交問題となってきた。それだけで博士論文が執筆出来るだろう。ドナウ川がいくつの国を通って黒海に注いでいるか、を考えて頂ければ、その意味がお分かりになる筈。

 いわゆる東方問題というのは、具体的に言うと黒海中立化問題、ボスフォラス・ダーダネルス海峡通過問題、東地中海の制海権問題、そしてドナウ川航行管理権問題を総称した言葉なのである。

 日本人にとっては「美しく青き」川というイメージの強いドナウ川は、実際は国際紛争の川であり、各国の砲艦が行き交う緊張の川だった。 

 定刻通りウィーン南駅に到着。路面電車に乗って市街中心部へ向かう。せいぜい10分ほどだ。

帝都ウィーン 陸軍歴史博物館  

 ウィーンは、私にとって天国のような街である。
 安い値段で世界一流のオペラ、オーケストラを鑑賞出来るし、街のカフェで飲むコーヒーの美味しさは格別だ。グラスに入った水が出されるのもウィーンならではだし、ケーキの美味なことは言うまでもない。ウィーンの森(ヴィーナーヴァルト)はアルプス山脈の東の終点であるが、ここのホイリゲ(居酒屋)で飲むワインは絶品だ。カーレンベルクという山頂展望台から見下ろす絶景の素晴らしさも必見であり、嬉しいことに、そこは市内から路面電車と市営バスを乗り継げば簡単に行くことが出来る。

 しかし、今回は駆け足旅行だから足を伸ばしている余裕はない。それ以前に、天気の悪さが本格化し、毎日のように雪が降り続いている状態なので、展望台からの眺望は全く期待出来ないだろう。

 雪の降りしきるウィーン市街をぶらついても寒いだけであり、土台、風邪をひいてしまっては元も子もない。必然的に行先は博物館か美術館になるわけだが、私の関心の対象から言えば当然、陸軍歴史博物館を落とすことは出来ない。

 昨日、プラハからの列車を降りたウィーン南駅の近くにそれはある。大きな構えの、一見中世の城塞を思わせる建物。
 
 オーストリアの軍事史もまた、ハプスブルク家の歴史と切り離すことは出来ない。膨大な展示について一々記しているスペースも時間もないから、ごく一部のみについて語ろう。

 オーストリアはスキーのメッカである。冬季五輪のメダル獲得者数だけでなく、国民の競技人口も恐らく世界一ではないだろうか。
 
 明治時代、豪雪地帯である日本海側の人々の生活は現在以上の大変さだった。他の多くの分野がそうであるように、日本人の生活に大変革をもたらした西洋の文物は、まず軍隊を通じて国民に普及した。国民皆兵の時代ならではの現象である。
 スキーもまたそうだった。

 日本にスキーを初めて持ち込み、教授したのはオーストリア・ハンガリー帝国のレルヒ少佐という人物である。新潟県の高田聯隊がその舞台。
 ウィーンの博物館には、そのレルヒ少佐の肖像写真と、恐らく彼の教授を受けているのであろう、和服を着た日本婦人がスキーを履き練習している写真が。
 なお、同少佐は祖国に帰国後、第一次世界大戦に従軍、少将で退役。1945年、ドイツと日本の敗戦を見届け世を去ったという。
 
 実は、新潟県高田聯隊には若き日の蒋介石も留学してきていた。高田にはレルヒ少佐の銅像があり、陸上自衛隊駐屯地内の記念館には同少佐と蒋介石にまつわる展示があると聞く。

 オーストリア・ハンガリー帝国の広大な領土はいくつかの軍管区に区切られていたが、それはレンベルク(現ウクライナ・リヴォフ)、アドリア海岸のプーラ(現クロアチア)にまで及んでいた。バルカン戦争の展示も面白い。第一次大戦の引き金を引いたサラエボ事件は有名だが、その前哨戦としてのバルカン戦争の意味が把握出来る辺りは、流石に本場(?)ならではの迫力を感じるのである。

 サラエボ事件の展示で最大の見物は、暗殺事件の時、皇太子フランツ・フェルディナンド大公が乗っていた乗用車(オープンカー)と、彼の着ていた血染めの軍服だ。
 狙撃犯のセルビア人青年プリンツィプと仲間の写真、彼の使用した拳銃と銃弾、柩に安置された皇太子夫妻の遺体写真など、時間が経つのも忘れてしまう。

 オーストリア・ハンガリー帝国はまた、海軍国でもあった。現在の内陸国オーストリア共和国は、第一次大戦後すなわちパリ講和会議の産物なのであって、オーストリア人が海を知らない民族だというのは大いなる誤解。ちなみに、先に記したアドリア海のプーラは同帝国最大の軍港だった。
 
 実を言うと、オーストリアは領土内に海がない時代も小規模な海軍(厳密には水軍?)を持っていた。国際河川たるドナウ川を管理守備するには、砲艦が必要だったからである。博物館は、その砲艦時代から帝国時代の外洋海軍までを網羅的に展示している。

 さて、私が訪れた時、偶然ながら1968年のチェコ事件におけるオーストリア軍の反応に関する特別展を開催中だった。先ほどまでチェコにいた者としては、興味をそそらずにはいられないだろう。
 中立国とはいえ、チェコスロヴァキア(当時)と長大な国境線で接するオーストリアの緊張ぶりは、想像以上だった。オーストリア軍は総力を挙げて国境に集結し、事実上、NATO軍と緊密な連携を取り合っている。
 通信傍受機器なども展示してあったが、凄かった。更に言えば、オーストリア軍の兵器が旧ドイツ軍の機関銃や拳銃を多く含んでいたことも知り、ビックリ。

 これで入場料5ユーロ強。
 少しでもいい、世界史の教科書を読み直すだけでもいいから、予備知識を仕入れて訪れれば必ずや有意義な時間を過ごせる筈だ。

音楽の話を少しだけ・・・  

 ウィーンに来てクラシック音楽に接しないのは、まるで具のない味噌汁をすすり、甘くない羊羹を食べ、しけた煎餅を齧るようなものである。
 音楽の都ウィーン。これだけでこの街全体が世界遺産に値する。正に値千金なのだ。

 私は元々、音大志望だった。クラシックがやりたかった。作曲家になる夢も持っていた。
 なぜ音楽の道へ進まなかったのかと言われたら、答えは唯一つ「才能がない」からである。
 
 恥ずかしくも何ともない。正直にこう言うことが芸術に対する謙虚さであり、真に音楽を愛する人間の態度だと、幾分の負け惜しみを込めて言おう。
 ちなみに、さっぱり上達しないが未だに楽器は続けている。

 音楽史上、ウィーン古典派と呼ばれる3人の巨匠は誰でもご存じだろう。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン。
 街のCD屋に行けば分かるが、この3人の作品を収録した商品数は群を抜いているし、そもそもクラシックをやる人間は必ずこの3人の音楽から入って来るのではないか。

 ウィーン観光の楽しさの一つに、彼ら作曲家の家を訪問することがある。ウィーン市は作曲家の旧居を可能な限り保存し、博物館として公開しているからだ。
 
.魯ぅ疋鵑硫函淵屮蕁璽爛控念室併設) ウィーン西駅近く
▲戞璽函璽凜Д鵑硫
   ハイリゲンシュタットの遺書の家
   エロイカ・ハウス(交響曲第3番「英雄」を作曲した家)
   市内メルカーヴァスタイの旧居
ヨハン・シュトラウスの家  プラーター遊園地近く
ぅ轡紂璽戰襯箸硫
   シューベルト生誕の家、死去の家

 ほんの一部でもこれだけの家がある。
 ベートーヴェンハウスで一番有名なのが、ハイリゲンシュタットの遺書の家だろう。聴力を全く失ったベートーヴェンが絶望の余り自殺を図ろうと、弟に宛てた遺書を書いた家だ。

 ちなみに、ウィーン郊外のバーデンにはベートーヴェンが「交響曲第9番 合唱つき」を作曲した家も残っているし、もう少し遠くへ行く用意をすれば、ハイドンの眠る街ローラウを訪れることも出来る。

 残念ながら今回は滞在期間の短さもあって、国立歌劇場でゆっくりオペラ鑑賞というわけにはいかなかった。本場のオケを本場で楽しみたければ冬に行くしかないのに、残念なことだ。夏場、彼らは海外巡業に出て本場欧州を留守にすることが多いとか。
 日本で見てもいいが、いかんせん、東京のコンサート入場料は高過ぎる。殆どショバ代だろう、と悪態の一つもつきたくなる。

 ウィーンのど真ん中、聖シュテファン寺院のすぐ近くにある「フィガロハウス」は、かつてモーツァルトが住んでいた家の跡だ。「ケーニヒ・フォン・ウンガルン(ハンガリー王)」という名の小さい瀟洒なホテルが前にある。
 近年、ここが大きなモーツァルト記念館としてリニューアルした。

 語弊があるかもしれないが、ここで数時間は時間が潰せる。きっと、ウィーンに来て良かったと思える筈だ。 

 聖シュテファン大聖堂では、夕方の礼拝が。一般客は立ち入り禁止だが、入口近くからパイプオルガンの演奏と賛美歌を聞く。今回のコンサートは、これで代用ということで。

旅の終わりは、雪のシェーンブルン宮殿で  

 駆け足旅行も、いよいよ終わりに近付いた。短い中欧の旅の最後は、シェーンブルン宮殿で締め括ろう。

 雪で一面の銀世界となったシェーンブルン宮殿の広大な庭園。夏に来れば、西洋特有の幾何学模様に彩られた、花で一杯の庭園なのだが、今はスキー場のようである。
 宮殿から庭園を見て真正面、小高い丘の上に聳えるグロリエッテという美しい装飾の建物はカフェになっているのだが、雪の斜面を登る人は皆無だ。当然、カフェは閉店しているのだろう。

 あのグロリエッテから見るウィーンの眺望も素晴らしいのだが、先述のように、今回は悪天候のため眺望関係は全滅。

 女帝マリア・テレジアが君臨し、ギロチンの露と消えた彼女の娘マリー・アントワネット(マリア・アントニア)が幼年時代を過ごし、会議が踊ったシェーンブルン宮殿。

 その大広間はフランス・ヴェルサイユ宮殿の「鏡の回廊」に匹敵する豪華さだ。ヴェルサイユ宮殿の「鏡の回廊」はパリ講和会議・ヴェルサイユ講和条約の調印式場となったが、シェーンブルン宮殿の大広間は、1961年6月米ソ首脳(ケネディ・フルシチョフ)会談場になったことで有名である。
 ここでの丁々発止のやり取りは歴史に残るだろうが、2ヵ月後、東独の独裁者ウルビリヒトがベルリンの壁構築という蛮行を仕出かした。

 入場料を払って宮殿に入るのも癪なので、今回は雪景色の庭園を眺め、マリア・テレジア・イエローと言われる宮殿外壁の美しい黄色を見物するだけにしておく。
 
 雪の降りしきるシェーンブルン宮殿で、私の短い中欧紀行もお開きである。仕事の合間を縫った駆け足旅行、強行軍もいいところだが、中欧の魅力の片鱗だけは伝わったと信じたい。

 ウィーン最後の夜は、地ビールとグーラッシュスープ、そしてヴィーナー・シュニッツェルのコラボレーションで。

感想  

 短い期間だが内容の濃い旅が出来た。繰り返しになるが、この一語に尽きる。自由に羽根を伸ばす楽しさを思い出してしまい、今後の仕事に支障が出ることのないようにしなければ。
 唯一の懸念である。
 
                  (完)
 

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